精神分析とは何か?

「精神分析とは何か?」という問いに対して,わたしは,わたしが主宰する 東京ラカン塾 のページでは,こう答えています :「精神分析は,存在の真理の実践的な現象学である」.いきなりそのようなことを言われても,あなたは当惑するだけかもしれません.ともあれ,ここでは,その命題に立ち入ることは控えておきます.ただ,その命題から,「精神分析は本質的に心理学の領域のものではない」ということは感ぜられるでしょう.

心理学でなければ,何なのか?その問いには,こう問い返してみましょう.あなたは,何らかの「こころ」の問題をかかえて,悩み,苦しんでいる — たとえば,不安,欝,無気力,漠然とした不全感,それなりの理由もないのに自分は「悪い」と感ずる罪意識や有罪感,「むなしい」という空虚感,「生きていてもしょうがない,生きていることに意味はない」という無価値感,「死にたい」という思い(あるいは自殺未遂),拒食,過食,自傷,自分ではやめたいと思っているのに反復するのをやめられない行為,強迫観念,固定観念,悪夢,等々.しかし,それらは,本当にあなたの「こころ」のなかの問題なのか?単なる「気持ち」の問題なのか?そうではないはずです.というのも,もし,あなたが,あなたが抱えるそれらの「こころ」の問題を誰かに相談したとき,その人が「それは,気持ちの問題だよ,気の持ち様の問題だよ,単に気のせいだよ」とあなたに答えたら?それでは,何の解決にも,慰めにも,なりません.それは,むしろ,その人があなたの問題を本当に深刻なものとは見なしていない,ということでしかありません.しかし,「こころ」の問題を「心理学的」に捉えるということは,実は,それを「気の持ち様」の問題という似而非[えせ]問題に還元する,ということにほかなりません.

一般に「こころ」の問題と呼ばれているものの根が根ざしているは,実は,心理学的な次元ではなく,実存の次元です — もし「実存」(existence) という語になじみがなければ,「存在」ないし「生きること」と読み替えてください. もしあなたが「こころ」の問題に苦しみ悩んでいるなら,あなたは,「実存する」こと — ないし「生きる」こと — の次元において,何らかの問題を抱えているのです.それは,心理学的な「気持ち」の次元に還元できるようなことではありません.

精神分析がいかなるものであるかがほとんど知られていない日本社会では,臨床心理学と精神分析とは同類のものと思われがちです.臨床心理士(あるいは,厚生省により新たに国家資格化された「公認心理師」)が行う「カウンセリング」と,精神分析家が行う精神分析は,似たようなものだ,と思われがちです.しかし,両者はまったく異なります.根本的な相違をふたつ挙げるなら,まず第一に,「実存」か「心理」か,の違いがあります.精神分析は「こころ」の問題を実存的な次元に位置づけますが,それに対して,臨床心理学はそれを主観的な「気持ち」や「感じ」の次元の問題に還元してしまいます.第二に,治療者の養成(トレーニング)の過程に決定的な違いがあります.ある者が精神分析家として機能し得るためには,その者は,みずから精神分析を経験し(いわゆる教育分析:分析家になろうとする者がみずから「患者」として精神分析を受けること),それによって「欲望の昇華」に至っていなければなりません.それに対して,臨床心理士も公認心理師も,その養成の過程において,みずから心理療法を「患者」として受けることはまったく必要条件と見なされていません.つまり,当然,人間誰もが多かれ少なかれ抱えているはずの「こころ」の問題が自分自身のうちでは解消されていないまま,他者の「こころ」の問題を扱うことになります.実は,それは,倫理的に非常に重大な問題です(ここでは立ち入りませんが).

ラカン派 vs 非ラカン派

周知のように,19世紀末,精神分析を神経症の治療法 — 当時,精神医学の領域では,有効な薬物療法は何もありませんでした — として創始したのは,フロィト(Sigmund Freud : 1856-1939, 写真左下)です.彼は,オーストリア国籍のユダヤ人でした.彼の弟子たちの大多数もユダヤ人でした.ですから,ヒトラーがドイツで政権をとり,オーストリアを併合すると,ナチスによる迫害から逃れるために,精神分析家たちは,こぞって,英国や米国に亡命しました(フロィト自身も英国に亡命しました).その結果,第二次世界大戦終了後,精神分析は英語圏で広く広まりました.広まったのはよかったのですが,物質的な豊かさを追求する風潮のなかで,精神分析の目的は「現実適応」に存する,と考えられるに至りました.神経症的な現実不適応は,「自我」が弱く,「性本能」が未成熟であるせいだ;したがって,「自我」を強化し,「性本能」を「性器体制」へ成熟させ,現実適応を可能にすること — それが精神分析の目的である,と考えられていました.

1950年代始め,精神分析がそのように「体制順応」に奉仕するものになりさがっていたとき,それに対する根本的な批判を展開し始めたのが,フランスの精神分析家,ラカン(Jacques Lacan : 1901-1981, 写真中上)です.彼は,存在の問いを問い続けた哲人,ハィデガー(Martin Heidegger : 1889-1976, 写真右下)の思考に準拠しつつ,フロィトの発見 —「無意識」と「死の本能」— を捉え直すことによって,精神分析を基礎づけなおし,精神分析をその本来的な可能性へ立ち返らせました.

わたし(小笠原晋也)が教育分析を受けた三人の分析家 (Jacques-Alain Miller, Colette Soler, Gérard Haddad) は,いずれも,ラカンの教えに準拠する精神分析家(ラカン派)です.特に,後二者は,ラカンに直接教育分析を受けています.わたしも,ラカンの教えに準拠するラカン派精神分析家です.

それに対して,英語圏の精神分析家たちのほぼ全員と,おもに英語圏から精神分析を輸入した国々(日本を含む)の精神分析家たちのほぼ全員は,非ラカン派です(自我心理学,クライン派,中間グループ,等々).

精神分析を純粋に基礎づけなおしたラカン派の精神分析と,生物学や心理学などの先入観を漠然と暗に前提したままの非ラカン派の精神分析とは,理論的にも実践的にも大きく異なります.今,ここで,両者の相違を詳しく論ずることはしません.ただ,世界の各国における精神分析の臨床の現状の違いを指摘するにとどめておきましょう.ラカン派の精神分析が主流であるフランス,スペイン,イタリア,南米諸国では,精神分析の臨床は社会に定着しており,次世代の分析家の養成も順調です.それに対して,非ラカン派が主流である英語圏では,精神医学における薬物療法の発達とともに,精神分析はすたれ,新たに分析家になろうとする若者たちは減り,既存の分析家たちは高齢化し,精神分析家は「絶滅危惧種」と見なされています.日本では,精神分析の臨床がほんのわずかな社会的広まりを見ることもないままに,日本精神分析協会(非ラカン派)は10年後か20年後には「自然消滅」しようとしています.(今でも,ときどき,「... の精神分析」と題された一般向けの本が出版されることがありますが,それらの本の著者たちは,教育分析を受けてはおらず,精神分析家ではありません.いまだによく読まれているらしい『ものぐさ精神分析』(1977) の著者も精神分析家ではなく,そこにおいて展開されている議論も精神分析的なものではありません.)

ともあれ,ラカン派精神分析家のところへ行くか,非ラカン派精神分析家のところへ行くか,迷ったなら,遠慮なく,「お試し」面接を受けてください.数回面接を受ければ,その分析家が自分に合いそうかどうか,あなたにもわかるでしょう(精神分析家に関しても「相性」は重要な選択基準です).

精神分析治療が適用になるのは,どのような病状の人々か?

もし仮にあなたがあなたの現状に「満足」しているなら,精神分析はあなたにとっては無用です — あなたが感じている「満足」が「本物」であるか否かは別問題ですが.

それ以外の人々は,皆,精神分析を経験することができます — あなたがそれを欲しさえすれば.つまり,精神分析は,誰かによって「精神分析家のところへ行きなさい」と強制されるようなものではありません.

病状としては,先ほども列挙したように,不安,欝,無気力,漠然とした不全感,それなりの理由もないのに自分は「悪い」と感ずる罪意識や有罪感,「むなしい」という空虚感,「生きていてもしょうがない,生きていることに意味はない」という無価値感,「死にたい」という思い(あるいは自殺未遂),拒食,過食,自傷,自分ではやめたいと思っているのに反復するのをやめられない行為,強迫観念,固定観念,悪夢,等々が挙げられます.しかし,特にこれといった「症状」がなくても,あなたが精神分析を経験してみたいと思うなら,どうぞ来てください.精神分析の経験のなかで,自分自身では気がついていなかったことに,いろいろと気づくことになるでしょう.

精神分析の方法

精神分析において精神分析家があなたに要請することは,あなた自身について「語る」ことだけです.ただし,頭に浮かんできたこと,こころに浮かんできたことを,すべて,いかなる保留もなしに — 言いたくない,言わない方がよい,などと思われることも含めて — 語ること.あなたがそのように語ることによって,あなたをとおして「何か」が語る (ça parle) ことになります.そして,その「何か」の語りに,あなたも耳を傾けます.

逆に,もし仮にあなたが,たとえば,分析家の前でしゃべることがなくなると困ると思って,あらかじめ言うことを文書化し,あるいは,どこかで目にしたテクストをコピーして,面接の際にそれらの文面を読み上げるとすれば,それは精神分析に対する抵抗にしかなりません.そのようなことは,あなたをとおして語る「何か」のことばに耳を傾けることを妨げてしまうからです.

言うことが頭に浮かんでこないときは,沈黙してかまいません.精神分析の面接は,社交的なおしゃべりの場ではありません.そして,むしろ,沈黙の穴をとおして「何か」が語ることばに耳を傾けることができます.

精神分析的な「解釈」は,語る「何か」に耳を傾け,そして「何か」が何を言おうとしているのかを読み取ろうとすることに存します.分析家は解釈しますが,あなた自身も解釈に積極的に参与することが求められます.ただ,精神分析的な「解釈」の目的は,例えばひとつの夢の場面に一義的な「意味」を付与しようとすることに存するのではありません.そうではなく,「何か」が語ることに耳を傾け,それが何を言おうとしているのかを読み取ろうとし続けることによって,このことが成起するに至ります:あなた自身において「何か」が何かを言うとき,実は,何かを言っているその「何か」はあなた自身にほかならない — そのことにあなたは気づき,そのことをあなたは受け入れ,「それでよいのだ」とあなたは感ずる.そのとき,あなた自身において語る「何か」がそのものとして現れ出でていることになります.精神分析的な「解釈」の終結は,そこに存します.


ところで,精神分析と言えば「寝椅子」(写真は,フロィトが用いていた寝椅子)です.しかし,ラカン派の場合,「寝椅子」(ラカン派では,ラカン自身がそうしていたように,背もたれの無い普通の寝台を使うことが多い)は,始めのうちは使いません.始めのうちは,普通の椅子に座って対面する面接が行われます.そのまま,数年間にわたる分析の経過中,ずっと,対面のこともありますし,途中で寝椅子を使い始めることもあります.それは,そのときどきの分析家の判断によります.

面接の頻度と「治療」期間

日本では,臨床心理の「カウンセリング」の場合,面接の頻度は週に一回またはそれ以下が慣習となっていますが,ラカン派の場合,週に複数回の面接を行います.少なくとも週 2 回,可能であれば,週 5, 6 回.もっとも,遠方から来る人の場合 — たとえば,月に一回または二ヶ月に一回しか東京に来れず,東京に一泊ないし二泊しかできない場合 —,そのような場合には,一日のうちに複数回の面接を行うこともあります.

面接をできるだけ頻繁に持つ方が望ましいのはどうしてか?それは,大多数のケースにおいて,症状の構造を「突き崩す」ことがかかわるからです(勿論,そうでない場合もあります.たとえば,苦痛に寄り添うことが重要な場合もあります.ただ,そのような場合でも,「寄り添い」は頻繁に行われる必要があります).症状の構造を突き崩す作業は,面接をより頻繁に行うことによって,より有効に進んで行きます.

精神分析の経験は,通常,数年間続けられます.ラカンとの分析を経験した人々のなかには,10年以上続けた人も少なくありません.ただ,必ずしも連続的である必要はありません.途中で中断の期間がはさまってもかまいません.また,フランスのように分析家が多数いる環境であれば,ひとりの分析家にしばらく分析を受け,次いで,ほかの分析家のところに行く,ということも可能です.特に,分析家の性別(男か女か queer か)や年齢(自分より年上か,同年か,年下か)を変えてみることが有意義である場合もあります(分析家の数が絶対的に少ない日本では,なかなかそうは行きませんが).

分析の経験がある程度進展して行くと,ラカンが「パス」(passe) と名づけた独特の状態が生じてきます.数年間にわたる分析の過程のなかで,「パス」は幾度か生ずることになります.そのような経験を経て,あなたが「もう十分だ」と感じたとき,分析は終結を迎えます.そして,今度は,あなたが精神分析家として機能して行くことができます(つまり,たとえあなたが精神科医や臨床心理士ないし公認心理師でなくても,あなたは精神分析家に成り得ます — ラカン派と非ラカン派の違いのひとつです).

面接時間と面接料金

非ラカン派の精神分析の場合,一回 45-50 分間に固定された面接の料金は,10,000 円前後か,それ以上です.日本で精神分析の臨床が広まらなかった理由のひとつが,そのように高額な料金設定でした.

ラカン派の場合,一回の面接の時間は変動的です:短ければ 5 分間のこともあり,長ければ 60 分間以上のこともあります.どこで一回の面接に終止をつけるかは,そのときどきの精神分析家の判断によります.何が目安か?それは,主体 $ の穴の現出です(今,ここでは,理論的な説明に立ち入ることは控えます).

面接の料金は,あなたの収入 — あなたは精神分析のために一ヶ月にいくらかけることができるか — に応じて設定されます.

あなたが高額所得者ないし資産家であるなら,料金設定の目安はこれです:いくらほど精神分析のために出費すれば,あなたは,金銭的な手段によってあなたの病的な現状にとどまることが難しくなってくるか.たとえば,あなたの年収が何千万円かであるのに,面接料金が一回千円であれば,精神分析のための出費はあなたにとって「屁でもない」ことになります.それでは,精神分析はあなたにとって「何の意味もない」ものにしかなりません.

極端なケースを挙げれば,Bill Gates のような桁外れの大資産家の場合,精神分析治療にどれほどの金がかかろうと,彼は,自身の症状を維持するために,それ以上にいくらでも出費することができます.そのような人の場合は,面接料金を桁外れに高額(たとえば一回10万円)に設定しても,精神分析の進展に対する抵抗が強すぎて,分析することはできません.ラカンは「金持ちは分析不可能だ」と言っています.実際,フロィトのある患者[4 歳のときオオカミの恐怖夢を見たので「 オオカミ男」と通称されています]は,当時,革命前のロシアにおいて,大富豪であり,フロィトは彼の面接料金を非常に高額に設定したのですが,それでも,彼は,分析において,「フロィトの息子である」という症状的な状況に安住してしまい,彼の治療は滞ってしまいました.

逆に,所得の低い人の場合は,それに応じて,一回の面接の料金は低額になります.たとえば,生活保護を受給している人に対して,非ラカン派は「あなたは精神分析の対象にはなり得ません」と門前払いをくらわすだけですが,わたしは,その人が精神分析のためにいくら出費することができるかを考慮して,料金を設定します.ただし,無料にはしません.なぜなら,無料にすると,精神分析を受ける側に「負いめ」が生じてきます — つまり「罪意識」が生じてきます — が,その罪意識は精神分析を受けることによって生じてくるものなので,それを精神分析によって解消することはできない,ということになってしまうからです.

上に説明したとおり,精神分析の面接は,週に複数回,数年間にわたって続けられます.それに必要な経済的負担が可能であるように,かつ,あなたが金銭的な手段によって症状にとどまることが容易ではなくなるように,料金は設定されます.

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